'15/5/25 〜 5/30小林ドンゲ展「ビュランの花」

新画廊 展示室 B / 入場無料
小林ドンゲ展「ビュランの花」 サブ画像

小林ドンゲ 略歴

1927年
東京に生まれる

1949年
女子美術大学洋画科卒業

1956年
日本版画協会展・第1回恩地賞、同協会会員、第1回東京国際版画ビエンナーレ

1965年
渡仏、フリードランデル、ヘイターのアトリエで銅版画を学ぶ

1966年
ル・サロン展・銅賞

1970年
銅版画集『雨月物語』(美術出版社)刊行

1972年
銅版画集『ポーに捧ぐ』(美術出版社)刊行

1976年
銅版画集『火の処女サロメ』刊行

1979年
『小林ドンゲ蔵書票作品集』(吾八書房)刊

1981年
現代女流美術展(以降毎年招待出品)

1982年
近代日本の美術―1945年以降(東京国立近代美術館)

1996年
個展(八重洲ブックセンター)

詩人の堀口大学の重要な詩集『夕の虹』『沖に立つ虹』『秋黄昏』『堀口大学詩集』など、挿画、装丁。辻邦生『ある晩年』や小川国夫『塵に』などの挿画を担当する。

古典的な銅版画の技法、ビュラン刻は忍耐がいる仕事であり、硬質な一流の線を刻むには技術の熟練を要する。小林ドンゲは官能的で鋭い刻線を自在に操る女流銅版画家の第一人者である。

銅版画と文学と私と - 小林ドンゲ

銅版画という西欧的な文化とは程遠い東京下町に生まれ育った私にとって、何故、銅版画を始めたかという問以前に、何故、絵画という得体の知れぬ世界に足を踏み入れたかという問に答えなければならない。繁雑な下町の商家育ちの私の幼少期は、多少の病気でも二階の子供部屋の床の中で独りで寝ていなければならなかった。時折、女中が薬や粥等を持って二階に上がってくるだけであった。夕方、周囲が暮れ始める頃、目覚める室内は薄暗く幼年の私にとって恐しく淋しい思いであった。隣室は両親の寝室で、父の趣味の数寄屋造りのその部屋には半床の間があり、色紙に描かれた美人画が掛けられてあった。その画は鏑木清方の『浅妻船』の画で、反り身になった胸にかけられた太鼓を打っている姿であった。長い袂は、抱きしめれば折れてしまいそうな華奢な美しい胴体をささえているように両方にひろがり、仰けた顔はこわれるように儚くただただ白く、細い鼻の下の口唇は前歯がちらと見えるように半ばひらかれ、大きな切れ長のめは遠く遠く一点をみつめているようだった。その美しさは幼い私に淋しさも、怖さも忘れさせ、闇がその絵を包んでしまうまでじっとその部屋に居たのを今でも想い出す。
これらの光景は四十年たった現在でも、不思議に明確に甦ってくる。そして清方という文学を連体した絵画があたえた幼少期の影響は、私にとっては、絵画という原点に初めて立った姿なのかも知れない。そしてまた、それは今日の私の秋成、鏡花、アラン・ポー、ワイルド等の中の深淵に手探りを続ける私の姿なのかも知れない。

女子美に入学するまでピカソもレンブラントも知らなかった私が、クートーの銅版画『カフカの像』を知ったのは、もう二十年も前のことだった。暗緑色や青の大きな油絵の作品群の中にポツンとあった小さな黒一色の画に私は吸いよせられていった。それは動物か昆虫か、何か得体の知れぬ胴体に大きなうつろな瞳を持つ病んだカフカの像だった。私にとって運命的と言ってもよい銅版画とのつながりが、黒の世界の不思議の虜になってしまったきっかけが病んだカフカとは…。 美大入学当時まで、おさげ髪して、やれラディゲだの近松だのと文学書の乱読を続け、世界の巨匠と云われる画家の名もろくに知らなかった。私が或るよい意味での文学との婚姻をむすぶことの出来る銅版画の道を撰んだのもいまにして思えば当然のことで、きわめて自然に歩んで来た二十数年であった。読書という作業は私にとって切っても切れぬ恋人であった。

昭和52年発行「これくしょん」67号より