―初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。
「光あれ。」
こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇とを分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。―
(新共同訳聖書 旧約聖書 創世記第一章一節~五節)
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古代エジプトや古代ギリシャ、キリスト教、仏教、神秘主義…
「光」は古来より現代に至るまで、様々な文化、思想において特別な意味を持つものとされてきた。それは例えば神の慈愛であり、完全なる調和と美の顕れであり、或いは人間の叡智の象徴であったりした。
「啓蒙」という言葉一つを考えてみてもそれは分かる。つまり「啓蒙」とは、「蒙(くら)きを啓(あき)らむ」=光で照らす、ということである。無知による盲目の暗闇を、知性という光が照らすのだ。
光とはつまり、人間が理想とするところのものをもたらすものである。その理想とは、知性と理性によって混沌と狂乱の闇を駆逐し、神の御愛によって栄光と安寧を享受する世界である。
光に照らされることによって私達は周囲の物の輪郭や色を捉えることができる。そこで見出だされるのは確固とした己れであり他者であり、秩序であり論理である。その上に構築される安定した世界を、私達は「現実」として認識し生きてゆく。
だが同時に私達はどこかで感じている、「全ては闇から始まった」ということを。私達の存在の根底には、淀み蠢く暗闇がある。それは光とて違うことではない。
闇の内にあっては輪郭も色も、確かな意味を失い融け合う。それは絶対だと思っていた秩序と安定の崩壊である。その闇に融ける時、感じるのは恐怖だろうか、歓喜だろうか、それとも甘美なる苦痛であろうか。いずれにしろそれは私達を抗いがたく誘惑する。
魔術とは、人間の持つそのような闇への憧憬と関係するものでもあるだろう。時に科学と結びつきながら、現実的な論理や秩序を超えた世界を臨まんとする魔術が古来から人間を魅了してきたのは、人間が自身の信じる理性の世界の限界と、根底に広がる闇の深淵を知っているからでもあるのではないだろうか。
かのファウスト博士がその類い稀なる知性の果てに悪魔との契約を求めたように、膨れ上がった知識欲と想像力が、今再び暗闇の世界を欲しているのかも知れない。
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薄暗闇の中、垂れ下がる電球の仄かな灯りに照らされて、夜光の芸術は浮かび上がる。
この世のものならぬ者達が描き出された絵画、動物の骨格が作り出す美しいフォルム。
黒い布に覆われた祭壇には魔術に用いる道具がずらりと並び、キャビネットには秘密の小箱のような作品がひっそりとしまわれている。
地球に昼と夜があるように、私達人間は光と闇を行き来する存在である。どちらか一方に偏ることはできない。その間を漂い、光と闇が重なり混じりあうところに立ち現れる束の間の幻像が人間であり世界であるとするならば、夜光の芸術達もまた世界のひとつの姿である。
現は夢、夢は現。
暗闇の底に沈殿したように静かに犇(ひし)めきあうそれらの姿を、どうぞゆっくりとご観覧頂きたい。
(画廊スタッフ:伊藤)
展示は来週1月22日(土)17時まで。是非お見逃しなく!
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